広島県福山市鞆の浦 ・・・といえば「いろは丸事件」・・・
慶応3年(1867)龍馬たち海援隊が大洲藩より借りた「いろは丸」の操船中、紀州藩「明光丸」と瀬戸内海で衝突し、沈没。
直後に寄港して談判した場所として有名です。
今回は、まだ当時の龍馬の泊まった宿なども現存する「鞆の浦」へふらりと行ってきました。





老中阿部正弘を輩出した福山城の直ぐ南にあるJR福山駅前のバスターミナルから「鞆の浦行き」のバスに乗ります。
平日の午前中だったこともあり乗客はまばら、
斜め前を見ると発泡スチロール製の容器をいくつか持ったおじいさんが座っています。
魚の行商帰りのようです。行く先の鞆の浦の町並みが想像出来ました。
そしてバスにゆられること約30分。
小さな山の間から視界が開けると瀬戸内海が見えてきました。
波がほとんどない静かな海の上に、所せましと小さな島が浮いています。
その間を行き交う漁船たち、ン〜!やっぱり瀬戸内海は良いです。美しい!










さあ、景色ばかりに見とれていてはいけません。
龍馬の足跡を追わなくては。
まず、土佐藩のいろは丸事件談判記録によると1度談判場所になったとされる「対朝楼」(お寺)を見学。
中では住職さん?から、対朝楼の歴史などを説明して頂けます。また客殿から見る外の景色がすばらしい!
次は「いろは丸資料館」。
昭和63年に地元有志の方を中心にいろは丸沈没付近を探索した時に引き上げた遺品、
沈没しているいろは丸の復元モデルなどが展示されています。
また募金に賛同すれば、いろは丸から引き上げた石炭がもらえました。
・・・ということは、いろは丸は主に石炭を運んでいたようです。
銃器類は何も出てきてないようです。龍馬はうそをついていたのか???
続いて、紀州藩が宿としていた「円福寺」を見学。海に面した小高い丘の上にあり、町を見渡せます。
元は大可島城というお城があったところ。
万一のいろは丸乗組員の襲撃に備えて丘の上の宿をえらんだのかもしれません。
そしてこの丘の下には、海援隊士が訪れたといわれる「遊郭跡」の建物もあるのです。










そろそろメインの史跡に行きましょう。
龍馬たちいろは丸乗組員の宿となった「桝屋清右衛門邸」。今も当時の建物がそのまま残っています。
龍馬が泊った部屋は隠れ部屋になっていたらしく、
10年程前に偶然その隠し部屋が見つかり“龍馬の隠れ家”としてテレビでも話題になりました。
次にいろは丸事件談判のメイン会場となった「魚屋万蔵宅跡」。
建物は改築されていますが、奥の方は当時の建物が残っているという話を聞きました。
この界隈は、まだ白壁の建物が多く残りまた寺院も多く、江戸時代にタイムスリップした気分になりました。
そして「保命酒」の看板と酒店がとても多いんです。
「保命酒」とはもち米と漢方薬を主原料にした薬酒で、江戸時代初期からこの地のみで製造販売されているお酒らしいです。
この保命酒屋が並ぶ商店街を歩いていると“ペリーや龍馬も飲んだ保命酒”という看板を掲げる酒店があるではないですか。
気になって店を覗いてみました。
おばあさんが出てこられ、話を伺うと、
ペリーが日本に来た当時の老中であった福山出身の阿部正弘が、ペリーに地元の酒を献上した事実があるらしいです。
で、この店で売っている保命酒は幕末当時の製法をそのまま続けているとのことでした。










しばらくたって、店主のおじいさんが外出から戻って来ました。
おばあさん:「この人、龍馬ファンですって。町をまわって来たそうですよ。」
おじいさん:「そうか、龍馬が好きか。 ・・・ファンではなく、龍馬を志さんといかんぞ。」
私:「はっ、はい。」
   (やさしい口調ではあるものの予想外の言葉で、一瞬身を引いてしまいました。)










その後、店主さんと、
龍馬が鞆の浦に来た時のエピソード、龍馬の思想などについて、
気が付くと2時間近くしゃべっていました。
とにかく龍馬と深い関係にある方のようです。










もう帰らないといけない時間がせまり、
私:「大変お邪魔しました。貴重なお話ありがとうございました。」
おじいさん:「もう帰るか。」
   (えっ、もう2時間くらい立ち話してるで。)
私:「神戸まで帰らないといけないので・・・。ぜひまた来たいです。」
おじいさん:「そうか。君も大変な人(龍馬)を好きになったもんだ。頑張れよ。」
   (目を細め遠くを見つめながら語ってくれました)





最後に夕日に輝く鞆の浦の海を見ながら、バスに乗り込みました。
予定していた福山城見学は出来ませんでしたが、とても龍馬の密度が濃い、鞆の浦の史跡めぐりでした。






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